「 科学的知見を基に被災者と共に立ち直っていきたい 」
『週刊ダイヤモンド』 2011年12月31日・2012年1月7日合併号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 918
12月17日、NPO法人のハッピーロードネット(HRN)とシンクタンク国家基本問題研究所の企画委員らとともに、福島県二本松市安達運動場仮設住宅と福島市南矢野目仮設住宅を訪れた。小雪が舞い、寒風が吹いたこの日は今季一番の寒さだった。
おのおのの仮設住宅地には約200世帯が避難しており、中学1 年生から80歳まで幅広い年齢の人びとと車座で語った。全員が、放射能汚染で現在故郷に戻れていない浪江町の人びとだ。
多くの人びとがここにたどり着くまでに避難場所を転々としていた。浪江町の約8,000人は、大震災翌日に避難を命じられ、同じ町内の北西20キロメートルの津島地区に移った。通信手段も国からの放射線量情報もいっさいないなかでの、町の決断だった。避難3日目に津島地区に隣接する葛尾村で全村避難が無線放送され、それが津島地区にも伝わった。同日正午頃、福島第一原子力発電所3号機爆発が報じられた。
不安と驚愕のなかで、浪江町は二本松市に被災者の受け入れを要請、15日朝、住民は新たな避難先に向かった。そこから先は全員が同じ行動を取ったわけではない。二本松市に向かう人、会津や郡山、県外に向かう人など、さまざまだった。そして今、彼らは問う。なぜ、事故直後に放射線量の情報はもたらされなかったのかと。
菅直人首相(当時)は自分はそんな資料があったとは知らなかったと言い張ったが、政府の手元にはSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータがあった。それを発表していれば、津島地区で高い放射線量が計測されていたことも明らかにされ、浪江町の人びとはそこを避難先には選ばず、今ほど放射能について悩むこともなかったかもしれない。
2ヵ所での対話で最も関心の高かったのが放射能問題だったのは当然で、意見交換のなかで、私は放射線量についての専門家らの見解を紹介した。危ういと恐れる前にあるいは、安全だと安心する前にできるだけ科学的知見に基づいて考えなければならない。その意味では日本も採用するICRP(国際放射線防護委員会)の基準をまず、頭に入れておきたい。それは、自然界から受ける放射線量(日本は年平均1.4ミリシーベルト)に加えて人為的要因で受ける放射線量は年1ミリシーベルト以下に抑える。ただし、医療従事者などは五年間で100ミリシーベルト、つまり年に20ミリシーベルトまでは許容される。また、緊急時には年に50ミリシーベルトまでは許されるというものだ。
人間が浴びる放射線量は少ないに越したことはない。特に児童、幼児はできるだけ露出を少なくするよう、守ることが大切だ。しかし、職業によって、あるいは緊急度によって5年で100ミリシーベルト、1年で50ミリシーベルトまでは許されている。ICRPの基準は、それだけの放射線量を受けても健康を害する危険性が有意に高まることはないとの判断に立っているのだ。
食品のセシウム汚染についても、ガンなどの放射線治療の専門家らの考えはあくまでも冷静である。おそらく、福島の人も、東京の人も、九州の人も、一定年齢以上になれば同じ確率でガンを発症すると専門家は語る。けれど、人間は数字や理性だけの存在ではなく、心の存在でもある。そう考えるとき、国はやはり、“汚染”が指摘される食品を廃棄するのが政治的、社会的に正しいのではないかというのだ。
私たちは心の面を決して軽視しないよう努めながらも、具体的数字を軸に話し合った。多くの人の表情が少しずつ明るくなった。故郷に戻れるにしても戻れないにしても、自分がどこに立っているかを知ること自体が力を与えてくれると実感した瞬間だ。
原発と放射能の問題はこれからも長く続く。両問題を賢く乗り越えるために、被災者が最も必要とする科学的、客観的情報を発信し続け、日本人として一緒に立ち直っていきたい。